晋六窯についてAbout Shinroku-gama
History of Shinroku-gama晋六窯の歴史
「晋六窯」の名前は私の祖父「辻 晋六」の名前から由来するもので、晋六は京都の鴨川の上流、上賀茂から北へ約12km行った「雲ヶ畑」の波多野家の四男として生まれ、京都府立第二中学校を経て、東京工業学校(現:東京工大)の窯業科へ進み、卒業後、京都の料亭「左阿彌」の三女 辻 栄津子と結婚。その後山科に築窯、制作活動に入りました。
文展・その他各種展覧会等々に入選、入賞。その傍ら、京都市立第二工業学校窯業科の教職として従事。
その後渡満し、吉林にて製陶していたが、終戦により引揚げ、帰京。昭和30年東山区南日吉町に築窯。 昭和45年11月1日に65歳の生涯をとじ、今は京都の法然院に眠っています。
The present of Shinroku-gama晋六窯の今
平成4年に東山区南日吉町から現在の左京区岩倉に移窯しました。
東山区南日吉町の時には、「晋六陶房」の個人事業主として主に陶器の製造・卸が専門でしたが、平成13年「有限会社 晋六」と法人化し、1階の店舗で小売業と3階で陶芸教室も開催しています。
現在は、父は高齢の為 自身の作家活動としての「オブジェ」などを制作し、主人が陶芸教室と受注商品の生産の傍ら自分の作品を制作しています。私は、というと経理、営業、雑用と経営にかかわる事と京都工芸美術作家協会で作品を作っています。
祖父から受け継ぐ「民芸」の大らかさと素朴さ、そして京焼の優雅さを併せ持った陶器の製作を心がけ、一つ一つ手作業でその時代時代に受け継がれていく器を制作しています。
ネットショップでは、特にご遠方のお客様にもお買い求めいただけるように、普段の生活で使いやすい陶器を発信しています。
晋六窯のオリジナル「ペリカン急須®」はその形のユニークさ・使いやすさから、半世紀以上作り続けられている逸品です。特に「家庭画報」「通販生活」などの通販誌にご掲載頂き、またテレビの取材などで取り上げて頂いたので、多くのお客様からご注文頂いております。
多くのオリジナルの陶器も一生お側で添い遂げるような器づくりをしています。手作りの良さを感じてお使い頂ければ幸いです。
辻 晋六のことば
古来陶器には、その部分の事を人に例えて、首・肩・胴・耳・口・手・腰などと言い、膚などと言います。地肌を皮膚と考えれば形の方は体格・上薬は着物又その模様は柄行と思えば、人間がそのまま出来上がります。恋の相手を選ぶ気持ちで陶器を見ると、人それぞれ好みが違うのは当然ですが、相手の気持ち・考え方・性質までは、なかなか理解し難いものです。大量生産の製品は別ですが、一つ一つ作者の手で作られた陶器には必ずその意図や性格・人柄が秘められています。
昔は陶器を作る人の心構えを教えて『1焼・2土・3細工』と言いました。火の洗礼を受けた良い焼き上がりの自然の美しさを一番大切な事とし、次に材料の土や釉薬の良さを求め、人為的な細工は末梢の事と考え、大いに匠気を戒めると同時に、材料が持つ自然の美しさを充分に生かせるように努力しました。無釉の南蛮や備前焼も形と焼き上がりの美しさだけで、充分楽しめるのもこの理由からです。
こう言うと、それなら陶器には絵や模様は要らないのかと反論されそうですが、決してそうではありません。ただ絵とか模様は第二義的な従的なもので、つまりあくまでも主である材料美を強調する効果のある場合のみ有効だと言うことです。九谷焼の土石は不純物が多くて焼き上がりが綺麗ではなく、又焼成中にキズが出やすいので、上絵をして素地の悪さをカヴァーするようになりました。大皿のキズを被う為に、田の畦道を図案化した奇抜な上絵を見た事があります。着物の図案や紙に描く絵と違い立体である為に、その模様のつけ方はぜんぜん違った方向に進んでいます。器を横から、又逆さにして絵付けをしますから、まともに置くとどうして描いたのか、また削ったのか判らないものがあります。
人間国宝の陶工がこんな名言を残しました。
「一本の線を画くなら、何処を切っても血が出るような線を引け」と。
もしこんな線なら一本でも充分鑑賞に堪える美しいものでしょう。
陶器を人間に例えると、窯から出た時は幼年時代であり、つまり後半生はこれを使用する人が育てるのです。共に生まれても、ひとつは良家の子となり、愛撫に養育されて立派な名品ともなり、他は心なき人に渡り乱暴に扱われて瞬時にして破壊し一生を終わることになります。
時々他所で20数年前の拙作に会う機会があり驚く事があります。釉はシットリと滋潤に、素地土は寂びて手馴れて、これが我が作かと疑う位です。まして百年、二百年、否数百年を経た陶器の美しさは、今窯出しのウブでイライラした物と比較にならないでしょう。
『氏より育ち』という言葉もあり、ご自分で選ばれた陶器はどうぞ、可愛がって育てて下さい。
陶芸家紹介Introduction of potters
辻 勘之 Kanji Tsuji
- 1933年
- 辻 晋六の長男として、京都 山科にて誕生
- 1952年
- 京都市伏見工業高校 窯業科卒業。家業 陶芸の道に入ると同時に、洋画家 坪井一男先生に師事
- 1955年
- 走泥社に参加。以後1998年解散まで同人
- 1956年
- 第1回個展開催。以後50回以上の個展を開催
- 1970年
- 父 晋六没後、晋六窯(晋六陶房)を主宰
- 1981年
- 走泥社オーストラリア巡回展出展。終了後、ニューキャッスル市美術館にパーマネントコレクション所蔵
- 1983年
- 京都在住現代陶芸家展に出品。以後毎年出品
- 1991年
- コスタリカ(中央アフリカ)工芸コンペティション’91招待出品
- 1992年
- 窯(陶房)を東山から岩倉幡枝に移築
- (社)日本クラフトデザイン協会・京都工芸美術作家協会 所属
- 職業訓練法による製陶指導員免許を所持
京谷 浩臣 Hirotomo Kyotani
京焼・清水焼 伝統工芸士
「器は料理の着物」と言われる通り、焼き上がって仕上がりというわけではありません。食物の盛り付けやそれに付随する様々な飾りつけなど、すべて整って初めて完成と言えるのではないでしょうか? 作り手と使い手が共に「器」を育てていければ幸いかと存じます。
- 1963年
- 兵庫県姫路市に生れる
- 1985年
- 大阪芸術大学芸術計画学科卒業
- 同年
- 京都府立陶工職業訓練校(現:京都陶磁器大学校)成形科入学
- 1986年
- 同行成形科終了・専攻科入学
- 1987年
- 同学 専攻科修了
- 4月より ㈱平安春峰にて煎茶器製作に従事
- 1991年
- 晋六陶房に従事の傍ら自身の作品を制作。 作陶グループ『職器流』を結成 以後毎年作品展を開催。現在に至る
- 2014年
- 京焼・清水焼 伝統工芸士に認定
- 2019年
- 京都市「未来の名工」に認定
京谷 美香 Mika Kyotani
祖父 辻晋六の作り上げてきた作風を守りながら、今につながる使いやすい「器」を提供し、陶器のぬくもりを感じて頂けるよう努力しております。
- 1960年
- 辻 勘之の長女として京都に生れる
- 1981年
- 京都精華大学短期大学部卒業
- 同 年
- 株式会社 京都銀行入社
- 1985年
- 株式会社 京都銀行退社
- 同 年
- 京都府立陶工職業訓練校(現:京都陶磁器大学校)図案科入学
- 1986年
- 京都府立陶工職業訓練校 図案科修了
父の元 晋六陶房にて従事 - 1988年
- 作陶グループ『職器流』を結成 以後毎年作品展を開催
- 1995年
- 第50回記念姫路市美術展に入選
- 2001年
- 法人化 現在に至る
インターネットサイト「晋六陶芸館へようこそ!」をオープン - 2005年
- オンラインショップをオープン
- 2016年
- 京都工芸美術作家協会会員
会社概要About company
会社名 | 有限会社 晋六 |
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代表取締役 | 京谷 美香 |
所在地 | 〒606-0015 京都市左京区岩倉幡枝町322 |
電話番号 | 075-721-3770 |
FAX番号 | 075-721-6237 |
事業内容 | |
取引銀行 | みずほ銀行(京都中央支店)・京都銀行(修学院支店)・ゆうちょ銀行・京都信用金庫(岩倉支店)・Paypay銀行 |